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2006年11月11日

アラレちゃんとガッちゃん

今までみていた夢を忘れてはいけないと思い、大急ぎで書くことにした。
時代はいつからわからないが、ふだんとおなじように、ブログで平和党の理念・政策を紹介している。どうも文明生活的には、未来のようである。

しかし、その理念・政策が、あまりにも波及していかないので、気晴らしにweb上で、詩をかいてみる。現実においては、詩など書いたこともないのだが、夢の中では描けるらしい。
その詩も、ほとんどの人が誰も読まないのだけれど一日に二人くらい見にくるらしい。
あるときに、メールかなにかの方法で反響があった。
それで調子に乗ってどんどん書くようになった。
この詩では、おのれが平和党幹部であることはかいていない。

しかし、このメールの反響主の文章の中にはhttp://heiwatou.com

というのが斜め書きされていて、かかれていて、なぜか知っているようだった。
この時代には、科学技術が発展して高さ何キロメートルもあるようなマンションにみんなが住んでいて、そこにいろいろなお店があるらしい。かなり豪華な仕組みになっている。だがなぜかトイレだけは、各部屋にはなくて共同になっている。

私は、トイレに行く途中に自分の部屋の物置に、高さ2メートル半くらいある折込印刷機のようなものを発見した。なんだかわからないものだが、前からそこにあるのは知っているが、それをいじくってみると、新聞を作成できるがわかった。新聞のサイズはいろいろ不便な事情があり、印刷も印刷屋に頼まないと不便で手間隙とお金がかかるが、これがあれば封筒にいれるところまで一気にやってくれる。封筒も既に中に入っていたが、使い方がわからない。装置には、ぐちゃぐちゃした封筒が入っている。ためしに使ってみたら、うまくいった。問題なのは封筒がよれまがっているものばかりなだけで、封筒を新たにすれば使える代物である事がわかった。その機械をつかってどんどん新聞で詩を発表していくのである。

それで世間的には、評判はよくなるのだが、最初にメールをくれた人は、だんだんと私に「違う」というメールを送ってくるようになるのである。

何が違うのだか全然わからないのだが、どんどん進めていく。だが、自分でも違うような気はしていく。
どうやら、メールをくれたのはドクタースランプに出てくるガッチャンであることがわかる。そして自分の役どころは、アラレちゃんであるという事にも気づく。つまり正義と悪がどうのこうのというようなイメージのものがわいてきた。
いったいなんなのだろうと思うのだが、これで夢は終わる。

 
 

おきてからいろいろ考えてみたが、私は、これは鳥山明という漫画家を思い出した。
ドクタースランプというのが少年ジャンプで終了して、しばらく彼が休んで期間をしばしあけてからドラゴンボールというのがはじまった。

最初は、ドクタースランプの延長線上みたいで面白いから自分はみていたが、最初は西遊記の話に基づいていたから、面白いと感じていた。だが、だんだんずれていった。もちろん本当の西遊記からは、ずれていかないと世間的には、オリジナルがなくて売れる要素にはならなかったのだろうが、私にとっては、実に空虚な、つまらない、だがそれでいて、ヒットしているのなら別に、おもしろくねえとか文句もいうことなく、かわまないだろうとの認識くらいを持っていた。そのうち、平成初頭では、大人がマンガを読むような時代になったりして、おじさんたちでもドラゴンボールにかじりつくようになっていた。はじめのころの話はややわかるが、そのとき私は十代であったが、あとのほうの話になるとおっさんのほうが詳しい人は何人かいた。

 

そして今週、『善悪中毒』の著者である東郷さんとはじめてお会いして、話す事になるのだが、そのなかで彼は、「ドラゴンボールというのは、初めは敵だったのが、のちに味方になるという日本人の好みそうなことをする」との話をいただいた。
なるほどと、そのとき思ったのは、キン肉マンと同じだなと思ったが、別にそんなことを言ってもしょうがないのでいわなかった。が、今ここに夢をみたあとになって考えてみると、面白いことが浮かぶ。キン肉マンもドラゴンボールも最初はギャグ漫画風である。だんだん書き手がまじになって、絵までどんどんシリアスになっていく。キン肉マンの著者ゆでたまごも鳥山も、もともとギャグ漫画家のはずが、しだいに笑いがなくなっていくのである。

 

キン肉マンの最初というのは、アホみたいな怪獣とたたかって牛丼をたべておどるだけである。そのうち超人同士でプロレスをはじめていき、なんか知らんうちにマジになって進んでいくようになる。そのなかで、悪魔超人はわるものとしてでてきて、のちに改宗して正義超人につくということをやっている。ドラゴンボールもおそらくそのような仕組みになっているのだろう。

しかし、ここで鳥山作品が違うのは、ドクタースランプからドラゴンボールへと作品自体が切り替わっているの理由もあろうが、あきらかにドラゴンボールの中で徐々にかわっていくわけである。
つまり、アラレちゃんの場合においては、正義も悪もなく、ただ「つおい」ことが求められているのである。その純粋のつおさが追究されている。だからアラレちゃんが悪の味方につく話というのもあったような気がする。だが、それほど深刻な悪でもなく、やはりアホアホ的な悪であるので、みているものにとってはさほど問題がない感じである。

正義と悪を超越したところに真の平和があるのだということが、平和党の流れであるが、夢にでてきた話は、私がアラレちゃんとしてのアイデンティティをいつのまにか捨ててしまい、正義と悪の闘いの中にはいって、強さを使うようになってしまった。だからガッちゃんは心配していたという意味であったのだろう。ガッちゃんは、あんな顔でも実はそれを悟っているので、だから、言葉も「くるくるぽぺぽー」しか言わず、一生あかんぼうのままで、しかも生殖方法はまゆになって、自己を分裂させるという方法をとっているのだろうかなどと考えた。

 

ドラゴンボールがそのあとゼットだのベータだのとわからないが、その後の物語は、一瞬見る程度くらいなのだが、やはり正義と悪を追究しているように見られる。

今の時代は、そのようなものを求めているのだろうなと、だけど、これが間違った方向にいくのだなと思う。そのために平和党として、政治の場で提唱していかなければならないのだなと思った。

 
アラレちゃんなどもう忘れていたのだが、フジテレビで第一話から再放送され、2歳の娘が、生まれてからみたことのないであろうアラレちゃんに食いついていたので、このような夢をみたのだと思うが、これは私にとって小学校高学年の頃にアニメ化されていて、少年誌での掲載であったが、幼年向きに人気があったものである。実はこのようなところにも、平和党的なるものがあるのだなと思った。
 

ところでこの夢を見た日の夕方に、再放送ではガッちゃんが初めて登場、恐竜時代の卵から誕生していたので、ものすごい偶然であった。

ひるがえって、現実をみてみると、このドラゴンボールとまではいわないが、まだドラゴンボールは、最初の悪が味方になっていくのでまだよいと思われるが、今の政治・経済は敵と見立てた人間をばっさりと切っていくやりかたである。

政策についても自民党がいいか、民主党がいいか、あるいは左派政党の反対論がいいか・・・・などと無駄な事をやっている。

みな、お互いが理解する事をしなくなった。昼にみた、ワイドショーでは、男女のカップルにもこのようなことが暴力として顕著にあらわれている。つまり、別れることが嫌な場合には、相手につきまとって徹底的に追いかけるストーカー行為。これは自分がその異性を愛しているのではなくて、自分に対する過剰なまでの自己愛の結果である。自分が正しく、相手は間違っている。だから、当然自分とつきあうべきだ、結婚すべきだ、と相手の考えを無視しておしつける。一方的な偏った愛欲。かつてであれば、そこまで情熱的ならと結婚した人もいたようだが、今、そういうことがないのは、極めて愛が、自己利益中心に走るようになっており、まさに愛ではないものがひろがっている。

 

自分以外のものは間違っていると、自分と同じことを言っている人を過剰に愛すると、或いは相手の考えがどうであれ、自分の思いを他人に押し付けると。教基法改正問題を見ても、教育政策の論議にもそれが現れている。

こうした、思想おしつけは、自己正当性の過剰な表現というのは、一種の寂しさからうまれているのだろうと思う。この寂しさは、社会が利益優先という土台で動くようになったからではないだろうか。すなわち、地域・家族・血縁・地縁を中心とした世の中から、生産・消費・雇用といった経済的結びつきが中心となってしまってきたがゆえに生まれているのではないか。平和党の場合は、経済優先をやめさせる方法としての自然主義経済を提唱しているわけだが、これがますます必要になっていくだろう。

そして、日本の保守政治家らも、こうした地域・家族を大切にした政治にしたいと考えているのはわかるが、一方では、弱肉強食の経済制度或いは護送船団方式の維持にしても経済優先社会をおしすすめており、ここに大きな矛盾を抱えているわけだ。

正義と悪をどんどんわけるがゆえに、社会にはいろいろな問題が起こっているのではないかと思う。

 
 

さきの、和歌山県の元出納長の自殺とおぼしきことでもそうだが、利権政治を悪として、徹底的に糾弾する。おれは市民なんだと、おれは有権者なんだと利権政治に走った政治家や役所を叩く。おれは患者なんだといって医療ミスを徹底的につつく。おれは親なんだといって不正教師をつつく。民主党では、菅直人、長妻昭、永田寿康、森ゆうこなど、知事では田中康夫、青島幸男などで、共産・社民の議員で言えばほぼ全員がそうだ。

こうしたことは時代の変革期において、あってしかるべきだが、彼らの共通性は、そこに何の解決案もなく、あったとしても、単なる資本主義上の微調整で、解決にはいたらないものばかり。彼らの動機は、一部の利権で甘い汁を吸っている「偉い人」の妬みの部分が相当程度は存在するのだとおもう。また、その世論の妬みを利用して民主党の中には、与党のちょっとしたことにつけこんで、いつでも役職をやめさせてやろうとの曲がった根性がある。共産・社民においてそういうひねくれ根性があるのはわかるが、政権交代しようという民主党がやるべきことではない。

そして、そうした人々はそういう「偉い人」に対して、「政治家・官僚は公僕である」、「我々有権者が選んだのだ」といって、自分があたかも、もっと更に偉い人であるかのように言う。なによりも、彼らは「偉い人」について、本当に偉いとは思っていなくて、自己の正当化のため、不正を追究する大衆社会を「もっと偉い人」なのだとするために、彼ら政治家・高級官僚をとりあえずただの「偉い人」に置いていることも否めない。

たとえば、和歌山県の出納長が死ななければならなくなったのも、福島でも鳥取でも同じような利権構造が発覚しているのも、これは地方というところが、お金の力においては弱いところに原因があり、この問題を先に考えなければならないのだ。

すなわち、地域・家族を大切にできる社会というのは、お金の力において、資本の力においてきわめて弱いのである。東京・横浜・名古屋・大阪は資本が集まってくるところであり、強いところである。しかし、地方に比較すれば、地域・家族社会がばらばらになっている典型的な都市だ。今に始まった事ではないが、当然、犯罪も多い。

 

地方分権が言われて、安倍内閣で道州制度を入れるということだが、そんなことで地方が豊かになるはずもなく、資本が集まってこそ力を持つ→地方が弱くなる→東京が強くなる→地域の崩壊・家庭の崩壊・少年犯罪の増加・福祉の失敗、こうしたことをなくすべきであり、そのためには、自然主義経済で、地域・家族が豊かになれる社会を作ればよいのである。しくみは地域通貨と同じであり、さらに減価する貨幣によって強い経済を作ることができる。資本主義経済はどうしても物質に目がいくが、自然主義経済は、時間の余裕、地域重視、家族重視というところから、精神性に目がいくのは当然である。



冒頭の夢の話に戻るが、こうした、ガッちゃんがアラレちゃんに対して「もう遭う事ができない」と考えるのは、現代人においてもあてはまるのではないかと思う。今一度、正義と悪にわけて無益な争いをすることをやめることが必要であり、ただ単につおい、家庭・地域・教育・福祉・芸術・文化を作ることを考えなければならないのではないか。

 
 
posted by 平和党代表・大坂佳巨 at 18:06| 福島 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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